個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(3)

個人詩誌『ひやそのほかの』創刊号(3)

2019年11月24日発行

 

7 「産む」を作品にするとき

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 伊吹島の出部屋から考えること

 

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   瀬戸内国際芸術祭の秋会期初日、フェリーを降りて伊吹島の港に立つ。観音寺の港では小雨が降っていたが、島では晴れている。思えばせとうちの島にいくたびにそうだった。

   秋会期から瀬戸内国際芸術祭の会場となる伊吹島は、芸術祭に参加する12の島の中でも最も西に位置している。真浦港に着くと島の内外の人びとが芸術祭のボランティアで旗をふって歓迎してくれる。にぎわっている印象を受けるが、この島もまた人口は減少している。

   伊吹島は周囲5.4Km、面積1.05平方キロメートルの小さな島だ。かつては鰯漁に従事する人が多く、いまも良質なイリコの生産が盛んで「イリコの島」として知られている。この日も港で歓迎してくれた人たちから、イリコのパックをお土産にいただいた。人口は2019年10月現在で477人となっているが、民俗資料館の掲示によると7~80年前には4000人以上いたこともあるようだ。
   伊吹島は坂が多く、また坂の上に行けばいくほど空き家が目立った。柱だけがのこり見通しのよくなった家の中はかえってそこにあった生活を感じさせる。

 

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   狭く急な坂を上ったり下りたりをくりかえすとやがて1970年まで使われたという産屋、出部屋(デービヤ)の跡地にたどり着く。伊吹町自治会と伊吹島を愛する会によって立てられた説明書によると「お産を家の納戸で終えた女性たちが一ヶ月間、新生児と別火の生活をしていた共同産室があった所」とある。この坂道をお産の後の身体をひきずってやってきたのだろうか。一九八三年に県道工事のため解体され、礎石と門柱だけが残っているその跡地もまた、わたしにかつてそこにあった生活を思いおこさせる。
   さて、その出部屋跡地であるが、瀬戸内国際芸術祭の秋会期初日であるわたしの訪れたときには、アート作品がそびえ立っていた。「伊吹の樹」というタイトルのその作品は自然を強く意識するような荒々しい造形で、ひのきの板が高さ4.5メートル、全長7メートルにわたって組み上げられている。内側には全面に鏡が張られ島の空を映し出している。
   瀬戸内国際芸術祭の公式ホームページ、および公式ガイドブックの作品紹介にはこうある。
   

伊吹島には出産前後を女性だけで集団生活し、家事から解放され養生する風習があり、その場所を出部屋(でべや)と呼んでいた。生命の誕生の場である出部屋の跡地に、作家は生命の樹を植える。横たわった大きな生命の樹は子宮を表し、地面と樹との空間をすり抜けることは母体からこの世界に出ることを意味する。

 

    作品の受け手、見るものがその作品を通して生まれ変わることをイメージしている、つまり「生命の誕生」とその神聖さを強くうち出して いるようだ。      産むことの生の側面に焦点をあてたそのアートはわたしに違和感と、疎外感をもたらすものであった。

 

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   「産む性」から逃れたくて、十年以上わたしは必ず毎日一錠の薬を飲んでいた。ホルモンを調整するのは身体を制したようで心地よかった。ところが環境の変化で身体のバランスを壊し、また加齢によっても、あんなに逃れたかった「産む性」が脅かされたとき、途端にそれが惜しくなった。

   いま、わたしにとって「産む」は決して自然ではない。出部屋にたたずむアートに感じた違和感はそんなわたしの「産む」観とのズレとも言えるだろう。だが、それだけだろうか。
   伊吹島の出部屋は、出産のけがれを忌み、家族と火をわけて生活するとされる産屋のなかでも最も遅くまで使用されていたひとつとして知られている。瀬川清子『女の民俗誌 そのけがれと神秘』によると、「不浄の婦人は網や漁具いっさいに触れてはならない、船に乗ってはならないという禁忌は、ところを記す必要もないほど全国的な禁忌」、「海辺の住民、つまり海に働く漁業者は、出産・月事のけがれを特におそれるといわれる」などと漁村のけがれ観は特に強かったとされる。そうしたけがれ観の強い漁村ではおそくまで産屋の生活が残っていたそうだ。
   しかし、今回の瀬戸内国際芸術祭の公式の作品説明や作者の説明、また雑誌や新聞等の記事にもけがれとの関連で出部屋を紹介したものはなかった。
   また、ほんとうに出部屋は「生命の誕生の場」だったのだろうか。伏見裕子『近代日本における出産と産屋 香川県伊吹島の出部屋の存続と閉鎖』では、明治から大正にかけてはどの時点で出部屋に入ったか確証が得られない状況だが、昭和戦前期については、そこでお産をするわけではなかったとの記録が多数残されているという。一九五六年に分娩室および診察室が設置されるまで、長らく出産場所として考えられてはいなかったのがわかる。
   ほかにも近年、出部屋をどのように紹介しているか調べると、経験豊かな女性に教えを請い子育ての不安を解消していたといったような当時の出部屋の機能を限定して、現代の日本に足りないものを求めるような動きが多くみられる。出部屋を地域おこしやアート作品の中心に据えたときに、けがれに関することをなかったようにしてしまうこと、また美化することが起きてしまうのはなぜだろうか。


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   わたしがわたしの身体のなかにある「産む」に戻ってきたとき、わたしの詩にもまた「産む」があらわれた。それとどう付きあっていくか 考えているなかで、また海をわたった。伊吹島は、わたしのいま住んでいる福山から春先まで住んでいた高松への、旅の途中で立ち寄った 島だった。出部屋跡地で、わたしの外側にそびえ立つ「産む」に向きあったことで、対象化できたように思う。
   かつて、産むことのまわりにあったであろうけがれや、祈りをなかったことにすることなく、しかし確実にわたしのものとして書くことは可能だろうか。わたしは、「産み」を神秘的なものにも不浄にもしたくない。自然的なものとして崇拝するのを、また、恐れるのをやめたい。本誌の最後に置いた「あらし」はそうやって抗いながら書いた詩である。おまえたちのものでもなく、わたしたちのものでもない、わたしのものとしてきりわけていく。「産む」をあらわす。
   むしろそこにあったのはただ空っぽの産道なのではないか。空っぽの気を満たすための場とした場合において詩はありうるのではないだろうか。

 


参考資料