詩誌をよむ 逸可実和子さん個人詩誌『Obscurity』

いまさらだが、インターネットで詩誌や私家版の詩集が手にはいることに気づき、気になっていた本をいくつか注文してみた。

まずは逸可実和子さんの個人詩誌『Obscurity』。

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ツイッターで拝見し、表紙のやさしい雰囲気のデザインにひかれた。実際手に取ると、やわらかい紙質の表紙にミシン綴じの装丁で丁寧につくられていることがわかる。それはまた、掲載されている詩を読んでいくとその詩のせかいを含んだデザインだった。

第一号

第一号の詩は詩と作者の距離が近いように感じる。また私自身が書かれていることに強めに共感してしまったため読むのがすこし苦しい。

 

Vol.2

「午睡」は「午後二時/時計の針がとまった/深く意識をしまいこんだ」という終盤の連から、それ以前のことばがふわっと幻想性を帯びるようで心地よい。

この号の中では「灰色」が好きだ。短い詩のなかに「さみしい」と感情を表す言葉がはいるが、この「さみしい」はきっと日常的な感情で特別な言葉ではないのだ。


寄稿されている岡嶋夏子さん「交点」。もう1作でもみられた特徴だが、一般的なカタカナ語に、ふつうはカタカナではあらわさない語がまぎれていてその語が不思議な語感を漂わせている。あえてカタカナであらわすことでその語を目立たせるのではなく、詩になじむようにしている。「つかみとり/チツにいれる」が、こんなになんでもないことのように書けるのか、と衝撃をうけた。

Vol.3

いまならわたしにも母と娘の詩が書けるだろうかと考える。しかしすぐにまだ無理かな、と思い直す。巻頭に置かれた詩「緑茶」では、母と娘の関係がとかれることなく描かれている。ラスト2行投げだされたようにも感じることばに、そのままにされた関係、「わからないひとには/わからない」関係がみえる。わたしが怯えて書こうとしないものが書かれている。

この号のゲスト一由悠太さん「島」は擬人過的な描写をしつつ、それを書ききらないことで、ラストまでつなげていく。擬人化する対象のぶれが相互にかさなりあっていて、それが「じんましん」だったり「島」だったり「小鳥」だったりするので読むものに身体的な感覚をもたらしつつ、映像としてもみせてくる面白さがある。

『Obscurity』は1年に1回のペースで発行予定とのこと、今後も楽しみ。

 

さて、勢いあまって長くなってしまった。

他の購入した詩誌・詩集についてはまた記事をあらためて書きます。